“キューバ民族音楽の確立者”
(1847年7月31日ハバナ生まれ 1905年4月29日同地没)
作曲家兼ピアニスト。
ピアノをニコラス・ルイス・エスパデーロに師事し、作曲を含めて、ピアニストとして高名なゴッシャルクに教わる機会も得た。
1865年パリ音楽院に留学し、アルカンとマルモンテルに学び、優秀な成績を収めた。
1866年ヘルツの5番のコンチェルトを演奏し、ピアノ科の一等賞を得、1868年には、作曲家の一等賞を得た。
作曲家としてローマ大賞を夢見たが、外国人のため、許可を得ることができなかった。
しかし、ロッシーニ、リスト、パデレフスキーから大変感嘆された。ピアニストとしても活躍し、ベートーヴェン、ショパン、メンデルスゾーン、リスト、バッハが彼のレパートリーとして、演奏された。
その他、オペラの指揮者としても活躍した。 1870年マドリードに短期滞在し、キューバに帰国した。 1875年コンサートの収入問題で、将軍から呼び出され、逮捕命令を出す前に国から出国するように言い渡され、キューバから一番近いアメリカへ渡り、音楽を続けた。
その後メキシコに渡り、母国のためのコンサートなどを開くことにより、ヨーロッパのロマン派の音楽に固執する一方、キューバのナショナリズムに目覚め、マヌエル・サウメル(1817~70)、ラウレアーノ・フェンテス(1825~98)、エスパデーロなどに続き、より洗練したキューバ民族音楽を確立していった。
1900年帰国し、タコン劇場の指揮者として、キューバ復帰し、1905年に生涯を終えた。