アントニオ・カルロス・ゴメス Antonio Carlos Gomes

 “国際的に活躍した最初のブラジル人作曲家”

(1836年7月11日カンピーナス生まれ 1896年9月16日ベレン没)

ブラジルの作曲家として初めて世界的に活躍した。イタリアオペラに大変興味をもち、特にヴェルディの音楽から深い影響を受けた。
幼いときからバンドマスターであった父から音楽の基礎と数種類の楽器の奏法を学び、18才の時初めて彼の書いたミサが地元の教会で演奏された。
1859年に兄弟のサンターナ・ゴメスとともに演奏旅行を行い、サン・パウロでは自作の校歌Hino aca demicoで評判をあげた。その後リオ・デ・ジャネイロの帝国音楽院に入学し、ジョアミン・ジャンニーニに作曲を教わり、本格的なイタリアオペラを学ぶ。1861年9月4日リオ・デ・ジャネイロのフルミネンシ歌劇場で上演されたオペラ「城の夜(A moire do castolo)」と続くオペラ「ジョアナ・デ・フランドレス Joana de Flamdres」(1863)の成功により、イタリア留学のための政府奨学金を受けミラノ音楽院で院長ラウロ・ロッシに学ぶ。その後イタリアに長く滞在することになった。そして多くのオペラ「何もわからない Se Sa minga」(1867)、「月世界で Nella luna」(1868)、「グァラニー族 Il Guarany」(1870)、「霧 Fosca」(1873)、「サルヴァトール・ローザ Salvator Rosa」(1874)、「マリア チュードール Maria Tudor」(1879)、「コンドル Condor」(1891)、オラトリオ「コロンボ Colonbo」(1892)などが上演された。特にブラジルのインディオ文化を象徴し、土着の舞踏をとりいれ、劇的な構成を持つ「グァラニー族」は、ヨーロッパの首都のほとんどで上演された。
1872年ヴェルディはこの作品について「本当の音楽の才能が見られる作品」と評価している。また、彼は多くの歌曲と共にピアノの作品として、「華やかなワルツ」を含むピアノのための8つの作品や曲集「アルバムのページ(Fogli d’album)」を残し、サロン音楽の上品な伝統を追求している。晩年は、1896年にブラジルのベレンで音楽院の院長をひきうけたが数ヶ月後に亡くなった。