アウベルト・ネポムセーノ Alberto Nepomuceno

“ブラジル音楽の父”

(1864年7月6日フォルタレーザ生まれ 1920年10月16日リオ・デ・ジャネイロ没)

ブラジルの音楽の父と称されカルロス・ゴメスに次ぐ、ブラジル民族の要素を取り入れた作曲家。その音楽はグリンカ、アルベニス、スメタナ、グリーグなどと共通し、単に民族主義的な面だけではなく、彼独特の音楽の世界を築き上げた。
最初に父に学び、ブラジル北東部のレシイフェで正式に音楽教育を受ける。18歳でカルロス・ゴメス・クラブで初めて公開指揮をする。
その後、1884年リオ・デ・ジャネイロのベートーヴェン・クラブでピアノを教えながら勉強を続け、1888年からヨーロッパの主要学校(ローマのサンタ・チェチリア音楽院、ベルリン芸術アカデミー、シュテルン音楽院、パリ音楽院など)で学んだ。
1895年リオ・デ・ジャネイロの国立音楽学校でオルガンを教え、1896年民衆音楽教会の会長、1902年国立音楽学校校長に就き、ブラジルの音楽と作曲家の認識向上に努めた。そして、1916年に校長を辞任後、ブリュッセル博での指揮のためヨーロッパへ行き、パリやジュネーブで自作や他のブラジルの作曲家の作品を紹介した。彼はピアノのための作品も多く残しているが、中には、ブラームスと同じ師から指導を受けたため、その精神面での共通性を「ソナタ」や「主題と変奏曲」などに見られるものや、親友の一人、グリーグなどのロマン性の空気が感じられる作品も、多く見受けられる。また、彼の右手が不自由な愛娘のために50曲に及ぶ左手のための作品も残している。
彼はヨーロッパで5ヵ国語を話すため、社会面で多くの友人を持ち、ピアニストではハロルド・バウアー、パデレフスキー、プゾーニ、コルトー、作曲家ではドビュッシー、サン・サーンス、マーラー、リヒャルト・シュトラウス、グリーグ、カゼッラ、ミヨーなどがあげられる。
1920年にはウィーン・フィルで友人の一人リヒャルト・シュトラウスによる指揮で、オペラ「O Garatuja」が上演された。
1920年、リオ・デ・ジャネイロで56歳の年で死亡。現在も彼の音楽家系は受け継がれている。