パウロ・フランシスコ・ミニョーネ Paulo Francisco Mignone

“多才な芸術家”

(1897年9月3日 サン・パウロ生まれ 1886年2月20日 リオ・デ・ジャネイロ没)

生涯作曲家として活躍した他、指揮者、ピアニスト、教師、劇場、文化省、放送局の音楽監督など、多方面に渡って活躍した。
作曲家としてのミニョーネは、ゴメス、ナザレ、ヴィラ=ロボスの影響を大きく受け、ブラジルの最も人気のある作曲家の一人に数えられる。
イタリア系移民の音楽家であった父に幼いころからフルートとピアノを習い、1907年からシルヴィオ・モットのもとでピアノを専門的に教わり、13才から地方の小さな楽団で演奏するようになった。サン・パウロの音楽院で作曲をアゴスチーノ・カントゥーに師事し、1917年に卒業するまでに「シッコ・ボロロ」というニックネームで作曲活動を始めた。
1918年リオ・デ・ジャネイロ市立劇場で、グリーグのピアノ協奏曲のピアノ演奏と自作の作品によるコンサートを行う。1920イタリアのミラノ音楽院に入学し、ビンセンゾ・フェッツローニのもとで学び、1929年にブラジルに帰国するまでイタリアの他、スペインなどにも滞在し、オペラをはじめとする数多くの作品を発表した。
この時期の作品は、強くイタリアの影響を受けている。(特に交響詩「ディオニュソスの宴 Festa deonisfaca」「カーニヴァル王 Momus」)なかブラジルの民族的要素も取り入れられた作品(オペラ「ダイヤモンド商人 O contratador de diamantes」)もあるが、より強く本格的に意識されるようになるのは帰国後で、民族主義思想を主張していた詩人マリオ・ジ・アンドラージに強く引かれた。そしてサンパウロ音楽院で教授を務めながら、独自のナショナリズムに根ざした作品を次々に発表していった。1929年、この時期を代表するピアノとオーケストラのための「ブラジル幻想曲 Fanatasias brasileiras」が、ソーザ・リマ指揮のサン・パウロ交響楽団で発表された。また交響てき印象「教会の祭り Festa das igreas」は、後の1944年にトスカーニ指揮のNBC交響楽団によって演奏された。1930年以降は歌曲とピアノ曲を多く発表し、ブラジルの人々に愛された。
代表的歌曲は、「6つの叙情曲 Seis Iiricas」など。ピアノ曲も莫大な数が発表され、民族的な「奥地の伝説 Lenda sertanejas」都会的センスのナザレを讃えた「4つのブラジル小品集 Quatro pecas Brasileiras」大衆音楽を素材とした非常にロマンチックな「街角のワルツ Valsas de esguina」「ショーロ・ワルツ Valsas choros」などを書いた。
その他ソナチネ、ソナタなども数多く残している。作曲活動と同時に指揮者として自作の曲も含めて、ベルリン・フィル、NBC、CBSなどの交響楽団で指揮し、世界で活躍した。
1960年からは、ナショナリズムから離れ国境を越えた曲作りに専念し、ミサ曲や室内楽曲を残した。1986年にリオ・デ・ジャネイロで亡くなった後、夫人ジョセフィーネを代表とするフランシスコ・ミニョーネ音楽財団が結成され、現在もその偉業を讃えるコンサートが毎年行われている。