“ラテンクラシック最大の作曲家”
(1887年3月5日 リオ・デ・ジャネイロ生まれ 1959年11月17日 リオ・デ・ジャネイロ没)
ラテンアメリカを代表する作曲家、ヴィラ=ロボスは、ヨーロッパの音楽界に新鮮な息吹を与えた。彼の一連の「ブラジル風バッハ」や「ショーロス」をはじめ数多くの作品は、その時代に生まれるべくして生まれたものと言え、彼はブラジルが生んだ生粋の作曲家といえよう。
ブラジルという地の、彼は大自然と人種から、またポピュラーとクラシックにこだわることなく素材を吸収し、影響を受けるとともに彼の存在は広く多くの作曲家に影響を与えた。
彼は1887年3月5日に生まれ、国立図書館員であり、教養深く、音楽好きな父親から音楽の指導を受けた。当初はヴィオラをチェロの代用として演奏法を習い、11才の頃には、汽車の音や床の上をひきずられてきしむ椅子の音などの音程を正確に判別する能力を備えていた。
父親はもちろんクラシック音楽家になることを望んでいたが、リオ・デ・ジャネイロからミナスジェライスへ移転し、初めてその街角で流れるポピュラー音楽に触れ、その時の体験は後の彼の作品に多大な影響を与えることになった。
1895年再びリオに戻りその4年後父を天然病で亡くした。母親に医学の勉強に専念するよう期待されたが、街のポピュラー音楽家のボヘミアン的生活にあこがれ、ショーロの仲間に加わって音楽活動を始めた。
18才の時、ブラジル各地の旅へ出掛け、多くの音楽を耳にし、記録した。
1913年にピアニストのルシリア・ギマラエンスと結婚し、彼女の協力のもと、次々に作品を書き始めた。
1915年初めて彼の作品が公開され、名声をあげた。
1917年ピアニスト、アルトゥール・ルビンシュタインと出会うことにより、ヨーロッパで作品を紹介する機会を得た。
1920年サン・パウロの現代芸術週間で成功を収めた翌年初めてパリへ渡り、多くの友人(ラヴェル、ファリャ、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、タリアフェロ、バレーゼなど)を持つことができた。
1924年に、再びヨーロッパに渡り、その友人達の協力のもとにコンサートを行い、大成功を収め、国際的に認められることになる。
1930年にブラジルへ帰国した際、大統領ゼッツーリョ・ヴァルガスにブラジルでの音楽教育の向上に尽力することを熱望され多大な貢献をすることになった。
1932年、アルミンダ・ネヴェス・アルメイダと2度目の結婚をし、生涯を共にした。彼の死後もアルミンダ夫人を館長とした国立ヴィラ=ロボス記念館がリオに設立され、彼の偉業を伝えている。